中世ヨーロッパの風景 < 城について >

〜コラム〜

1.城の語義

【コラム】カストルム、カステルム

 中世の人々は、ラテン語でいう防御建築物を二つに分けていました。
 「カストルム」(Castrum)は、ある地域全体の人々の防衛を目的とした築城で、
 「カステルム」(Castellum)は、ある個人と家族を守るため防御設備を施した家屋です。
 語源的なことをいえば、英語の城郭(カースルCastle)は後者のカステルムから派生しており、防御設備を施した個人的な住居、築城を意味することになります。


2.中世の城の数

【コラム】保存の良い水城

 バイエルンの行政区オーバーフランケンでは、中世の防御施設が265、ウンターフランケンでは296も確認されています。アイフェル、フンスリュック、モーゼル、ライン、ラーンの城塞で有名なコプレンツ・トリーアの二つの行政区ではあわせて300ほど。オーバーフランケンのほぼ5分の3、151が丘陵・山地・山の斜面にあり、その他の32は水の枯れた渓谷城(タールブルク)、82が水城です。オーバーフランケンではとくに水城の保存状態がよく、今日でも人が住んでいる72のうち40は水城なのです。

【コラム】城の大きさ

 ほとんどの城は、ごく小さなものに過ぎませんでした。
 大きな城としては、プファルツ地方のリヒテンベルク城が、1辺約360mの四辺形。旧東プロイセンのマリーエンブルク城(1272年建設、ドイツ騎士団総長の居城)が、1辺約600mの四辺形、といった例が挙げられます。ザルツァハ河畔のブルクハウゼン城は城全体が6ブロックにわかれ、1100mに渡って山の狭い尾根の上に連なっています。おそらく城の全長では最大のものでしょう。


3.封建城郭の分類

【コラム】ジゾール城

 ジゾールGisors市は、パリの北西60kmに位置する人口8000人ほどの小市です。
 ここに、イングランド王ウィリアム2世ルーファス赤顔王(在位1087-1100)が創建したモット・ベーリィ型城郭が現存しています。
 矩形の城壁を巡らせ、中央あたりにはモット形式の本陣がひかえています。城壁の東南隅には円塔を配した正城門、西南の隅と北面の城壁中には搦手門、東南隅には隠し門がありました。伏せ鉢状の丘がモットであり、その頂部には殻(周壁)がめぐり、前面に通路があり、入った正面には八角形の主塔(ドンジョン)があります。

【コラム】シノン城

 12世紀、ヘンリー2世、リチャード1世が築いたシノン城Chateau de Chinonは、ロワール河の支流ヴィエンヌ河に臨む断崖上に建つ古城で、ロワール河上流200kmに位置しています。これは、東西に約400m、南北に約170mの細長い地域を占める城で、天険を最大限に利用した、三個の独立城郭を一直線に並べる珍しい形式です。
 フランス王フィリップ尊厳(オーギュスト)が、13世紀初頭、約8ヶ月の包囲のあとに攻め落とし、以後はフランス王領となりました。
 百年戦争の後期、ジャンヌ・ダルクと王太子シャルル(後のシャルル7世)が最初に出会った歴史的な城として、いまもたいへん有名です。


4.山城と水城

【コラム】洞窟城(ヘーレンブルク)

 自然の洞窟があり、中の広さが居住するに十分なら、覆いかぶさるような巨岩を利用し、外側に城壁を巡らせて、洞窟城を建造することがありました。
 周囲の岩壁を穿つのはほとんど不可能で、こうした洞窟城に対しては、包囲しても兵糧攻め以外に有効な手はありませんでした。
 例として、ケルンテンのプクサーロホ城、スイスはライン渓谷のヴィーヘンシュタイン城があります。洞窟といっても広く、ヴィーヘンシュタイン城は、五階建ての住居がつくれるほどのスペースを持っていました。

【コラム】堀の種類 ・首型堀(ハルスグラーベンHalsgraben)
上に書きましたが、半島城などの陸側(山側)に掘られ、陸地(山地)から城を隔てて独立させる重要な役目を担っていました。

・環状堀(リンググラーベン)
平地の水城に造られ、城全体を環のように囲んで巡らされる壕です。

・門前堀(トーアグラーベン)
城門のすぐ前を遮断するための堀です。

・遮断堀(アプシュニツグラーベン)
城囲いの中をさらに分断する堀です。もっとも多いのは、外郭と内庭の間に掘られるもので、外郭まで攻め込まれるか、城内で反乱が起きたときに役立ちます。


5.城の概観

5−1.城の外側

【コラム】跳ね橋の構造

 跳ね橋が、城の入口の遮断柵をかねている場合です。
 もし、跳ね橋を巻き取るための鎖が、堀を渡って城の外側で橋につながっていたらどうなるでしょうか。攻撃されたときに、鎖を巻き取るのが間に合わなければ、鎖を切られて橋が落ちたままになり、敵が殺到するのを許してしまいます。それは困るので、跳ね橋の上下を城内から完全にコントロールするため、次のような構造が考えられました。
 まず、跳ね橋全体の長さを、堀の幅の二倍より少し大きくします。そして、堀には跳ね橋の半分を渡し、残りの半分を城側に引きこむのです。跳ね橋の中央を支点として固定し、城側に引きこんだ跳ね橋の先端に鎖を通します。鎖の先は、もちろん巻き上げ機につながっています。
 こうして、いつもは跳ね橋が上がっていて、入口の遮断柵となるようにしておけばいいのです。滑車と巻き上げ機で鎖をひっぱり、城側の端を動かせば、そのときだけ跳ね橋が下がり、城外との交通ができるようになるしかけです。

【コラム】盾壁(シルトマウアー)

 盾壁(シルトマウアー)とは、敵の攻撃にさらされる側面に、主城壁を守るためつくった頑丈な防御壁塔です。背が高く幅の広い城壁のような塔で、背後の主城壁との間には空間があります。
 シュヴァルツヴァルトのベルネク城には、巨大な盾壁が城にさしかけられるようにそびえ立っています。

5−2.主な施設

【コラム】窓の中に座って

 私たちは窓から外を眺めようとしたら、「窓辺へ」(ans Fenster)歩み寄ります。
 しかし、中世の城では、「窓の中へ」(ins Fenster)歩み入りました。城壁に穿たれた窓は、小さな壁龕として造られています。贅沢な建物なら壁は弓状に反り、床より高い窓の下辺と一緒になって、奥行きのある小部屋のような趣をみせます。そこで、外を見るには、広間から石段を二、三段登って、「窓の中に」座ることになります。
 造りつけの小さな石のベンチにはクッションが敷かれ、太陽がなかなか沈まない夏には、快適な座席として愛好されました。
 祝祭や試合のとき窓側が婦人優先であったのはもちろんです。

【コラム】城での災難

 現在の私たちは、たとえ台風が来ても家の中にいれば一安心ですが、当時の人々には、風や雹や稲妻は大敵でした。塔は私たちが思うよりも自然の力に抗えなかったのです。
 たとえば、アルトボートマン城ですが、1307年に落雷と火事により完全に破壊されてしまいました。12世紀にローテンブルク・タウバー渓谷の崖の上に建てられたシュタウフェル家の皇帝城は、1356年に地震のため崩壊。今では小さな館と礼拝堂だけを残す、城庭(ブルクガルテン)となっています。

 ミスによる人災もありました。14〜15世紀には、ほとんど広間は上階にありました。そのため、居館をもう一階増築したり、天井に重い家具をおくのは危ない試みでした。地下水槽を居館の下にまで広げるのも危険でした。こうした知識は、過去の事件から得た教訓だったのです。
 1045年、国王ハインリヒ3世がドナウのペルゼンボイク城のリヒリント女伯を訪ねた折りのこと。群衆の重さで突然ホールの角柱が崩れはじめ、広間のたたきがおち、階下の浴室にいた客人と城の住人が地下水槽に転落する事故が起きます。驚き逃げた国王は無事でしたが、城の主である女伯をはじめ、ヴュルツヴルク司教ブルーノ、エーベスブルク修道院長らが、溺死や転落の際の怪我で死んでしまいました。
 1184年、エアフルト宮廷会議の際も同様の事故が起きました。国王ハインリヒ6世は窓に飛び移って助かりましたが、5名の伯や多くの騎士が転落しました。

5−3.そのほかの施設

【コラム】庭園

 城にはかならず庭園があり、野菜や香辛料・薬味用の薬草が植えられました。菜園には、サルビア、パセリ、ウイキョウ、クサノオウといった薬味、キャベツ、ニンジン、ニラ、カラシ菜、タマネギ、ネギや、さまざまの果樹。猫の額ほどの土地でも、人々は花や薬草を育てました。城郭内に適当な場所がなければ、城外に庭園を設けました。
 庭園は婦人の場で、季節ごとに色とりどりの花が咲いて目を楽しませました。たとえば、白ユリ、イヌサフラン、スミレ、シコレ、ベゴニア、バラ、ヘンルーダなど。

【コラム】猫にご用心

 1467年、ニュルンベルク城では井戸を清掃する作業を行っていました。石積み工は、3頭の馬と3人の徒弟を使い、8時間も働き通しで、深い井戸を干しました。狭いうえに、不用意に降りると酸欠の危険もありますから、さぞ骨が折れたことでしょう。
 さて、清掃がやっとのことで終わったそのときです。一匹の猫が、何を思ったのか井戸に近づき、なんと中に落っこちてしまいました。……哀れな石積み工の苦労も水の泡、最初からやり直しとあいなったのです。

【コラム】井戸は秘密の抜け道?

 ネッカーゲミュント東5kmの郊外にあるディルスベルク城。この城の名物として、深さ46mの井戸が残されています。この井戸は、選帝候たちの避難場および逃げ道だったといわれていました。敵が攻め入ってきても、城主たちは、井戸の水面から硬い岩盤の中を続く坑道を通り、ネッカー川側の山腹の出口へと逃げられたというのです。掘られたのは1670年頃、坑道の長さは80mにもなります。
 廃墟になり忘れられていた井戸ですが、20世紀になって再発掘されました。そのとき学者たちにより、坑道の本格的研究も行われました。
 そして発表された新説によると、この坑道は避難場や逃げ道ではなく、単なる空気穴だった……とのことです。当時、井戸を清潔に保つためには定期的な清掃が欠かせず、その際の酸欠で苦しむのはどこも同じだったようです。その解決策が、横に掘られたこの坑道だったというわけで……ちょっとがっかりですかね。


6.城の歴史

6−1.古代から10世紀まで

【コラム】城塞は避難場所?

 有史初期には、柵で防御されただけの住居と、避難用の砦は、それぞれ別のところに建っていました。6〜9世紀になっても、アレマンの貴族たちは平時には邸館に居住し、危急の時には大きな城塞に避難しています。これはゲルマン古代と変わりません。カロリング朝の後期になって、やっとこの両者が一体化したと思われます。

【コラム】タワー・ハウス

 タワー(塔)の名から分かるとおり、城は平面図では狭くなりましたが、そのかわり塔を建てて高さを増しました。防御する面を縮小し、守備力を強化したのです。有史より、弓矢・弩・槍などの射撃・投擲武器は高い所から攻撃する方が効果的で、「高い所を占める」という築城原理を反映した結果が、タワー・ハウスでした。
 この築城形式は、封建城郭の初期形式であるモット(Motte)へと発展していきます。

【コラム】城邑(ブルフ)

 5〜11世紀のイギリスでは、城邑(ブルフBurh)と呼ばれる木柵、土塁、空堀または水壕で囲まれた初期の村落・町がつくられました。バークシャー・ウォリングフォードで遺構を見ることができます。

【コラム】ハインリヒ1世の城塞条例

 ハインリヒ1世は、933年ウンストルート河畔・リアデの野戦でハンガリー軍を相手に勝利をおさめる前に、9年間の休戦期間を得て、その間に有名な「城塞条例」を出して各地の城を整備していました。
 条例によると、戦士の9人に1人は城に住まねばならず、収穫の3分の1を受け取って保管する義務を負っていました。他の8人の戦士たちは、農業に携わり、集会や宴会も城で行うことと決められていました。ふだんより城の暮らしに慣れておくためです。

【コラム】大量の木材消費

 10世紀頃の城壁は石や煉瓦を用いず、丸太をぎっしり積みあげて構築しました。コペンハーゲンの南西にあるトレレボルク城は、城壁を建造するのに樹齢200年の大木8000本を要し、ために森林200エーカーが荒廃したといわれています。
 また『聖ドニ献堂記』に、聖ドニ院長シュジュールが、教会堂建立のための梁材探しを森番に相談したところ、一笑されてしまい嘆いたという話があります。
 中世初期に西ヨーロッパを覆っていた森林は12世紀までに切り尽くされ、それ以後は城の建築のみならず船の建造も盛んになり、良材はあらかた払底してしまいました。
 ギリシャやローマの森林破壊は、ヨーロッパでも起こったのです。
 ちなみに、木材の伐採は冬季、毎月満月の前後がよいとされ、木材は四つ割に挽切ったうえで、樹脂を抜くため、相当の期間池や沼に放置したそうです。

6−2.11世紀以降、石造への転換

【コラム】誰が汝を王としたか

 城を持つとは、すなわち周辺に権力を及ぼすということです。11世紀からはじまった権力の地域への細分化は、特にカペー家のお膝元・パリ周辺地方ですさまじく、名高いところでモンレリィ、モンモラシィ、リーラダン、モンフォール・ラモーリィをはじめとする領主たちが独立割拠しました。(ちなみに「モン」とは山という意味で、当時の城が丘や山に築かれたことを表しています。)
 こうして、11〜12世紀は不断の緊張に満ちた社会となりました。領主たちは、自らの領民を保護すると同時に、近隣の土豪を敵としています。主君と家臣の間柄といえど決して心を許せるものではなく、王の命令であっても諾々と従うとは限りませんでした。
 アダルベール・ド・ペリゴールがフランス王ユーグ・カペーに対して叛乱をおこした際の有名な逸話がよくあらわしています。
 このとき、王は軍使を送って「省みよ。誰が汝を伯としたか」と難詰させました。
 これに答えてアダルベールは「省みよ。誰が汝を王としたか」と返したのです。

【コラム】バユー・タペストリー

 バユー・タペストリーは、1066年ノルマンディ公ギョーム(後のウィリアム1世)がイングランド征服に成功した後、自分の功績をタペストリーに描かせたものです。ノルマンディ地方の小市バユーに保存されているため、バユー・タペストリーと呼ばれています。幅およそ50cm、長さ70mもある麻布に8色の毛糸で刺繍したもので、構図は一人の手になりますが、刺繍は数人で行ったようです。

 ブルターニュ公国は、中世を通じて独立した公国で、フランス・カペー王家とは対等の位置にありました。ノルマンディ公国とは、モン・サン・ミーシェル島を挟んで相対したため、ノルマンディ公ギョーム(後のイングランド王ウィリアム1世)と、ブルターニュ伯コナンの間には、イングランド征服の少し前に争いが生じています。その様子をちょっと見てみましょう。

 まず、ドルDol城。ギョームは最初にここを攻めました。タペストリーでは細かいところまでわかりませんが、この城砦が小丘を利用してたてられ、中心の主塔(ドンジョン)に当たる建物が少なくとも二階建ての木造であること。丘の上に行くには、階段のついた斜面を登らねばならないこと。登りきったところに城門が構えられていたことが見て取れます。次のレンヌRennes城ですが、ブルターニュ公国の首都という以外、ドル城と大差ありません。

 そして、ブルターニュ伯コナンが、首都から逃れて立て籠もったディナンDinan城。これは完全なモット形式でした。周囲には壕を巡らし、壕をまたいで階段がモット頂部へと通じています。階段には、上下両方に城門が構えられ、モット城には城柵をめぐらせた中に主塔が築かれています。ノルマン兵が放火しているので、木造だとわかります。主塔の窓から、旗竿の先端に鍵を下げて差し出している人の姿が見えますが、これは開城を意味する行為で、コナンがギョームに対してついに降伏したことを表しています。

【コラム】カースルトン

 イギリスのモット城郭は、しばしば“Castleton”(カースルトン)という地名で、語尾の“ton”はアングロ・サクソン語の“tun”(耕地、囲い)。つまり“Castleton”(カースルトン)とは、城主の直営農地を指す言葉でした。イギリスのピッカリング城、ヨーク城などの城址や、ウィンザー城の中郭にその遺構がみられます。

【コラム】木造の城は?

 城が石造に変わっていく一方で、木造の城も平行して存続しつづけていました。
 考えてみますと、輪型キープ城郭というのは、モット城郭の頂上を縁どる木柵・土塁を石塁にかえたものです。形式的な発展からみれば、輪型キープ城郭はモット城郭のすぐ後の時代に現れるはずです。しかしイギリスでは矩形キープ城郭の方が12世紀と早く、輪型キープ城郭はこれより後の12世紀後半〜13世紀に出現しています。
 これはどういうことなのでしょう?

 中世の城主たちは、彼らの経済力や軍事的必要度などから、新しい築城技術や城郭形式を採用するには限界がありました。貴族といっても、みなたいへん貧しかったのです。
 また、木材で作られた防御設備は想像以上に強固で、粗雑なつくりの石壁に勝っており、一方で、熟練した石工を集めることは困難で、工事費も高価だったに違いありません。実際、12〜13世紀の石造の城の大部分は、石工の手によるものではありませんでした。
 総じて、モット城郭の城主は石造への移行を急がず、時代の下がった頃に改築をおこなったものと思われます。

6−3.13世紀、城の衰退

【コラム】クラック・デ・シュヴァリエ

 十字軍史に名を残す、騎士城(クラック・デ・シュヴァリエ)はゴシック城郭の代表格です。聖ヨハネ修道騎士団がトリポリ伯レモンから譲渡され、本格的に築城した結果、難攻不落の堅城となりました。
 1187年、太守(スルタン)サラディンも奪えず、1271年、謀計によりイスラム軍の手に落ちるまでは何者も近づけませんでした。その外壁は最大厚さ9m、外壁周囲600m、兵員収容能力約2000名。ここに城郭の理想型の一つがありました。



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