中世ヨーロッパの風景 < 城について >

6.城の歴史

6−2.11世紀以降、石造への転換


11世紀以降の城

 第2次築城ブームは11世紀、ノルマンの影響を受けたり、叙任権闘争がおきた時期に始まります。シュタウフェン朝(1138〜1254)から13世紀いっぱいまで築城は続き、多くの騎士が城主になりました。さて11世紀、ドイツの主要な城塞のタイプは、新しく造られた山城(ヘーエンブルクHohenburg)、平城(Neiderungsburg=Motte)であるモット・ベーリィ形式、そして古い城塞(Burgwall)でした。これはフランスでもほぼ変わらず、モット・ベーリィ形式と矩形型(四辺形・長方形、英語ではレクタンギュラーrectangular)キープ形式が採用されていました。

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山城(ヘーエンブルク)

 山城の方から説明しましょう。
 敷地面積は0.5ヘクタール未満、直径5〜10mの円錐台にすぎないこともありました。この城のポイントは、丘陵や山の上に築かれ、やがてドンジョンと呼ばれる主塔が現れるのですが、ほとんど木造、という三点です。
 避難民を収容することはせず、城を軸とする機動力の傘でみずからの領地をカバーするのが、山城に陣取った領主の方針でした。
 城を囲う壁は、壕と、その壕を掘って出た土を内側に盛り上げて築いた土手、その上の防御木柵から構成されるのがふつうでした。壕は、深さ10mに達する場合がありました。壕を作るには相当の土砂を動かしたことでしょう。囲壁は二重に設けられることが多かったようです。


モット城郭(モット・ベーリィ形式)

 いっぽう、モット城郭は、摺り鉢を伏せたような人工の小丘(一般に比高6〜10mの円錐台)を中核とした城です。モットと連結した周辺住民を収容する外郭(ベーリィ)とあわせて、モット・ベーリィ形式とも呼ばれます。
 規模は様々で、全面積1.5〜3エーカーと小型のものもあります。
 バユー・タペストリーの描写や、考古学的調査から、モット頂上面の縁にそって、土塁や木柵が巡らされ、内部に木製の塔が設けられていたことがわかっています。モット上の塔には、城主とその家族が生活し、外郭には城主の直属の従属者たちの木製住居、納屋、倉庫、馬屋、礼拝堂などが設けられていました。
 モットの麓に設けられていた外郭にも同じ防御設備が施され、さらにモットの裾や、外郭の外側にも、空堀か水壕が巡らされていました。

 バユー・タペストリーには、ノルマンディやブルターニュ地方に多くのモット・ベーリィが描かれています。ノルマンディやブルターニュ地方で10世紀半ばにピークを迎えていたモット城郭は、イギリスには11世紀のノルマン征服(Norman Conquest)を介してとりいれられました。
 しかし、現在イギリスに残るモット・ベーリィ形式や、これから発達したシェル・キープ形式の城は、フランスではあまり見ることができません。ノルマン人がフランスに構築した多くのモット城郭は、後々まで保存されず消えてしまったようです。

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石造への転換

 11世紀以降、中世初期の城塞(土木造城壁のみの人民城塞)は、コンパクトな石造の城塞に転換していきます。環状城壁(リングマウワー)が、塔のある城塞(トゥルムブルクTurmburg)へ変わっていくのと同じ頃です。

 12世紀のロマネスク城郭は、ドンジョンを中心に二重三重の同心円城壁を広げる輪型キープ城郭(シェル・キープShell Keep)を特徴としますが、これはモット・ベーリィを石造に改築したものです。12世紀末になっても、ほとんどの城は木造でしたが、増改築による石造への移行が目立つようになりました。

 たとえば、モントロー・フォン・ヨーヌ城は、1015年の木造建築でしたが、1196年に石造部分を付加し、1228年には完全に石造となりました。クンプリアのブローハム城は、イァーモント川に沿ったローマ時代からの木造砦でしたが、1170-80年代に四角い石の城が造られ、13世紀中頃に石造の居館が建てられて、柵も石垣にかわりました。
 イギリスでは、ノルマン王朝が中期前後になると、モット城郭から石材を使用した城郭への組み替えが進んでいきます。

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