中世ヨーロッパの風景 < 城について >

5.城の概観

5−2.主な施設


ベルクフリート/ドンジョン/キープ

 ベルクフリート(Bergfried)は、城壁の内側に高くそびえる防備堅固な主塔です。特別に厚い壁を持ち、内部は数階に分かれています。古名では「大きな塔」と呼ばれました。
 (ドイツ語です。しかし語源はよくわかりません。フランス語ではドンジョン、英語ではキープといいます。日本の城で対応する建造物はなく、あえていうなら天守閣ですが、ベルクフリートを天守と訳するのは、適当とは思えません。)

 塔の天辺からは塔番が周辺を見張り、近づく者があれば、叫び声や角笛で門番や城の住人に伝えます。いざ戦いになれば、高所から有利に射撃できます。
 しかし、ベルクフリートの本来の役割は、攻城側が外側の施設を占拠したとき、城の住人に最終的な避難所を提供することにあります。いわゆる最後の砦ですから、ひじょうに堅固に造られていて、母屋がなくなってもベルクフリートだけが残っている城はたくさんあります。ネッカー河畔の城跡はみなそうです。 (ちなみに、ベルクフリートがなくて、外塔(アウセントウルム)が最後の防衛所かつ見張り台ということもありました。)

 塔の横断面は円型〜多角型です。初期は円形ですが、住居としては使いにくいため、時代とともに正方形に変化していきます。
 平均して直径は9〜10m、高さは約27m、といったところでしょうか。実戦で鍛えられたフランスの城のドンジョンは、概してベルクフリートより大きく、平均の幅は約20m、高さは約30mに及びました。
 壁の厚みは、名城シャトー・ガイヤールで3〜4m、ジゾール城やロッシュ城で平均3mです。6mの厚さを持つ城さえありました。なにせ最終防衛の拠点ですから、簡単に打ち壊せないよう頑丈に建造したに違いありません。
 同じ理由で、窓も極力小さくとりました。塔内はさぞ暗かったでしょう。
 フランスの城壁用語で、ドンジョンを直接に取り囲む内壁を「肌着」(シュミーズ)といいますが、これが壊れると城の人々は裸同然、その生命も風前の灯火というわけで、ひじょうに実感のこもった言葉だと思います。

 ところで、ベルクフリートの建物ですが、一階には入口がありません。
 え? じゃあ、どうやって中に入るのかって? 実は、塔の二階、地上5〜10mくらいの高さに入口があり(プフォルツハイム近傍のリーベンエク城では、地上19m(!))、ひっこめられる梯子や投げ落としできる橋をつかって中に出入りしたのです。これは、危急の際に籠城するため。梯子をよじ登った先は、せいぜい一人ずつ入れる程度の横穴になっていて、入口は幾本も丸太の閂で閉ざすことができました。梯子をひっこめてしまえば敵が上がってくるのは難しくなりますし、たとえ横穴から入り込んでこようが一人ずつなら何とでも料理できます。

 そういうわけで、一階は、扉も窓もない塔の底になっています。出入口は唯一つ、一階の天井、つまり二階の床の揚げ戸しかありません。
 この最下層は、備蓄品をたくわえる倉庫や、金や貴重品を保管する宝物庫(『ニーベルンゲンの歌』には「純金の塔」という表現があります)として使われましたが、同時に、捕虜を監禁する地下牢としても用いられました。侵入してきた敵を捕らえ、吊り下ろしたのでしょう。しかし、この地下牢は、汚物や糞尿がたまり、蛇や蛙や毒虫がうようよし、地下水がしみこむ、……最悪の環境です。
 この文字通りの暗黒に二年間閉じこめられ、身代金を払ってリュッツェルハルト城から釈放されたときは、妻も息子も彼を見分けられなくなっていたゲロルツェックの殿様の話もあるぐらいです。(捕虜にとっては、居館にある堅固な部屋に拘禁される方がよっぽど好ましかったでしょう。地下室なら話はまた別ですが。)

 塔の二階には暖房できるホールがあって、城兵たちの宿泊所になっていました。煙突はすべての階に通じています。各階の連絡は、左巻きの螺旋階段で行われていました。これも城外の小道と同様で、階下から攻められたとき敵の右側を攻撃しやすくするしかけです。他の階がどう使われていたか、少し例を挙げて見てみましょう。
 11世紀の聖者伝・縁起譚『聖ブノワ奇蹟録』には、1056年頃、オルレアン近郊のモンタルジィ城の様子があります。

 「塔の内部には二階があって、広間となっており、そこに城主スガンと家族が住んだ。そこで暮らし、食い、かつ眠ったのである。階下は穴蔵で、人々を養うに必要な備蓄を受け入れ、保存するために充てられていた。広間の床は、大ていそうであるように、さして厚くはないが、幅広く長い梁材を組み合わせて造られていた。」

 1120年頃、フランドルのアルデル城では、一階が倉庫、二階が料理場(ほか二部屋)、三階が領主の子供たちの部屋で、かつ哨兵の詰所として用いられていました。
 上層部が居室に使われることが多かったようで、三階が炊事場かつ召使いの寝所、四階が家族の私室、五階が騎士たちの溜まり場かつ居間として使われていた例もあります。
 最上階には見張りの塔番が詰めていて、城に近づく者につねに警戒を怠りませんでした。その任務を果たすため、塔番は妻帯を禁じられていたほどです。

 塔の中に礼拝堂を設置することもありました。シュタウフェン朝(1138~1254)では、城の教会(ブルクカペレ)は守備の要、つまり城門の上やベルクフリートに造られていました。聖遺物や祭壇の秘蹟が、不運から城を救ってくれると考えられたのです。そうした信仰が薄れると、教会は城の一角に場所を移しました。

 一般的な傾向をいえば、独立した狭いベルクフリートに城主が住んでいたのは、12世紀後半ごろまでのことです。ベルクフリートと外城壁の距離はしだいに縮まっていき、13〜14世紀に城の居住性が以前より重視されるようになると、防御の際にはすぐ外せる木橋で、他の建造物とつながるようになりました。
 やがて、防御拠点としてベルクフリートよりも城壁囲郭じたいが重視される時代になり、存在意義を失ったベルクフリートは消えていくのです。


居館(パラス)

 堂々たる王城(宮廷城、ホーフブルク)には大きな屋外階段があり、居館(パラスPalas)の階上にある大広間(大ホール、《騎士の広間》)の入り口まで続いていました。

 大広間の入口からは、何が見えるでしょうか。
 詩人は、シーダ材の天井、緑の大理石の床、見るも珍しい水のように澄んだ水晶でできた宮殿について歌います。詩人の空想には追いつかずとも、職人たちは大広間の壁を美しく飾ろうと、人物・装飾・花をしかるべく配置しました。聖書のいくつかの場面、ダヴィデとアブサロムの闘い、アレキサンダー大王の冒険、馬を駆る騎士、聖者像、『トリスタンとイゾルデ』や『イーヴァイン』からの一連の場面等が飾られ、絨毯(タペストリー)も壁に掛けられました。トロヤ戦争や『アエネーイス』の絵も。壁のあいたところは色彩で彩り、ときにはゲルマンの慣習の名残で紋盾が掛けられることもありました。大広間の石柱や木の支柱は細い作りで、芸術の一翼を担っています。

 テーブルは食事時に持ちこまれる、というのは前回書きました。
 入り口と反対側の壁際に、賓客用の席があり、「最上の第四の壁」と呼ばれたことがあります。これは主人と賓客が食事するための、周りより一段高くなった席で、《舞台》(ビューネ)とか、《踏み台》(ブリュッケ)の上にあります。
 折り畳み椅子は、特別の場合の椅子です。折りたたみでき、背もたれがあり、動物の頭などが彫られた肘掛けまでついていることも。至る所に皮が張ってあり、さらに柔らかいクッション付きなのです。クッションは、そのまま床の敷物のあちこちに置き、低く座り心地の良い座席とすることもありました。鳥の羽ならプルーミート、羊や馬の毛ならマトラスと呼びました。
 ちなみに、ドイツ語の安楽椅子(フォテーユ)は、もとはフランスから持ち込まれた品で、フランス語の折りたたみ椅子(フォドウスチュエル)から来ている言葉です。

 動物もあちこちにいます。主人や客の楽しみに、籠の中に鳥を飼う、あるいは宮殿に放し飼いにするとはよく聞く話です。これも前回少し触れました。
 ペットとして、犬やイタチも見られました。

 居館からちょっと歩くと、礼拝堂、雇い人の家、家畜小屋、穀倉にいきあたります。すべてが連結され、生活を敵から守る工夫がなされていました。斜面・階段・門道はできるかぎり防御有利に、やはり敵が右側をさらけ出すように作られています。
 礼拝堂、つまり城教会(ブルクカペレ)ですが、城には欠かせないものでした。小さければ、質素な祭壇と壁画だけを用意した一角にすぎないものでしたが、大きなものは城教会の名に恥じない、専属の城付き僧侶による規則的なミサを行ったのです。ニュルンベルク城の有名な複層礼拝堂がよい例です。
 11〜13世紀のあいだ、城主たちと家臣たちは別々にミサに与っていました。城主たちは二階で、家臣たちは一階でそれぞれミサをあげていました。

 教会というとステンドグラスを連想しますが、個人用の窓ガラスは12世紀末以降に現れた超高級品。贅沢のできない貴族の城の窓にガラスはもちろんなく、雨風や冬の寒さを防ぐには、窓の板戸を閉ざすしかなかったのです。

【コラム】窓の中に座って


居間(ケメナーテ)

 居間(ケメナーテ)は、中世ラテン語の「カミナータ」に由来しています。火のある場所や暖炉を意味する「カミネス」を備えた部屋を指していました。
 後に、婦人たちの居室、城主や家族の居室や寝室、大広間の隣や上階の客室もそう呼ばれるようになりました。小さな城では居館の一部、大規模な城では私生活のための独立建造物もそうです。たとえば、『ニーベルンゲンの歌』ヴォルモス城、クリームヒルトのケメナーテがその例です。

 では、ケメナーテをちょっと覗いてみましょう。
 城の猫のために、扉の下に小さな穴があるのはご愛敬。中には、領主夫妻用のバネ付きベッドがありました。ベンチの長辺と平行に編み物を張り、両方の横木に丈夫な環で止めたものです。上に羽毛のクッション、全体に美しいキルティングをしたカヴァーをかけて完成。これが《ソファーベッド》です。

【コラム】城での災難



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